吉備真備公





 吉備真備は、奈良時代、備中の小田川流域にあたる下道郡(現在の真備町・矢掛町付近)の豪族下道国勝の子で、若くして遣唐留学生に選ばれ、阿部仲麻呂らとともに中国の唐の都、長安に赴きました。唐にとどまること19年の間、儒学・歴史学・政治学・経済学・法律学・数学・天文学・暦学・兵学・音楽など多方面にわたって学び、帰国しました。  当時、世界最高といわれたこれらの文物の数々は、吉備真備の帰国によって我が国へもたらされ奈良時代の諸制度、文化の繁栄に計り知れない貢献をいたしました。また囲碁の請来や、カタカナの発明も吉備真備によるといわれています。その後、遣唐使として再度中国に渡り、わが国へ初めて律宗を伝えた鑑真和上らとともに帰国しました。二度にわたって万里の波濤を越え中国に渡り、多くの文物をもたらした吉備真備は、奈良時代を通じて、国政の重鎖となり、晩年には、正二位右大臣の位階を授けられております。


吉備寺




吉備真備公の菩提寺。箭田大塚の出土品や、国の重要文 化財指定の白鳳時代の蓮華文鬼瓦と当時の礎石などを保存しています。
「へちま封じ」と称する祈祷は脳病に効験あり といわれ、また南の丘には吉備様と呼ばれる吉備真備公の墳墓があり、
入学・就職の祈願で多くの参拝者が訪れます。



産湯の井戸

一際目を引く色彩豊かな中国風名水公園として、最近、整備された真備公産湯の井戸です。




吉備公館跡




現在この館跡は町の公民館の北西約100メートルの地にあり、石碑が立っている。
産湯の井戸の南東にあり、館跡はこの井戸と小川を隔てた西の小高い田んぼの中にあったことになる。
この地を天原という。


吉備公墳




吉備寺の南方、通称‘吉備さま’の境内奥に吉備公墳がひっそりと眠っています。
江戸時代、領主伊東氏が吉備真備公のものかどうか確認するため墓を掘ってみた記録が残っています。
大柄な体格であり、吉備公の墓であったようです。


弾琴岩




吉備公は漢詩や和歌などあまり作られたようでわない。 しかし楽器は唐から持ち帰った。
 宝亀二年(771)三月に右大臣を辞して帰郷した彼は中秋の名月の夜、この岩の上で琴を弾いたという。
 吉備公が右大臣を辞したのは七十八歳の時であり、唐で十九年過ごし、大部分を大和で過ごした彼がどうしてこの地に帰って
暮らしたかなぞであり、伝説となっている。
秋には、弾琴祭があり、真備公をしのんで琴の合奏などが あり、賑やかに行われます。



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