各村の由来


岡田村

 岡田村は古くは苑県(そのあがた)の一部で吉備武彦の子、浦凝別(うらこりわけ)が封ぜられてこの地を治めていたという。
 その後備中下道郡に属し、曾能または薗郷といわれ、後に薗荘となったが、元禄十四年藩主伊東長救が、その邸を中村から岡田山に移してから後、薗郷のうち中村および岡田山付近を岡田村といい、辻田村、森村、池田村、を合して辻田村といった。
 鎌倉時代は備中守護職梶原景時、その後、和田、小早川などの治下にあったが、戦国時代となり、猿掛城に庄氏、成羽に三村氏が居り互いに攻防した。

 永禄九年(1566)毛利領となり、天正十一年(1583)高松水攻め後、毛利の武将小早川隆景の支配となった。
 関ヶ原の役以後は徳川の直轄地となり、松山の代官小堀氏が治めたが、元和元年(1615)、伊東丹後守長実がこの地を領してより十代二五五年間、岡田藩領として殿様のお膝元の村として明治維新に至る。

 明治十一年下道郡役所を岡田に設置、明治十六年下道郡第一部戸長役場が岡田村に置かれた。
明治二十二年町村制施行により、岡田、辻田の両村合併、岡田村となる。
明治三十三年下道郡は賀陽郡と合併して吉備郡となる。

 これより吉備郡岡田村といい、昭和二十六年、川辺村と合併して大備村となる。
僅か一年で真備町に合併、真備町大字辻田、大字岡田となり現在に至る。


川辺村

 川辺は山陽道に駅馬の制のあった頃より徳川時代の終わりまで宿駅として本陣、脇本陣などあり、また高梁川水上交通の要地として栄えた。
 ここは古くは備中国窪屋郡白髪部郷に属し、川辺の里といっていたが、後に河辺郷といい、下道郡に属した。
 鎌倉時代より明治時代まで岡田村と領治関係は同じであるが江戸時代の初め四十年間、岡田藩主伊東氏は川辺の殿様としてここにいた。

 明治以後の県郡などの所属は岡田村と同じ。


薗村

 この地は古くは荘県(そのあがた)の一部であるが、後に下道郡曾能郷に編入、更に荘園として薗荘と呼ばれた。
 その薗というのは範囲が広く、現在の岡田、辻田、有井などを総称していた。
 江戸時代からの領治は岡田と同じ。但し二村に分かれていて、有井村と市場村とあったのが明治二二年合併して薗村という。

 明治になり県の所属は岡田と同じ。
その後は川辺などと同じ。真備町に合併する前に大備村誕生の時呼びかけたがその時は合併せず、二七年になって真備町となり、真備町大字市場、大字有井となる。


二万村

 この地域は古くは下道郡邇磨郷で、薗村などと同様の沿革により明治維新となる。しかしその当時は上二万村と下二万村とに分かれていた。
 明治十年戸長制度の時、服部村の第一戸長役場の管轄となる。
 明治十六年連合役場制度の時、上二万村に下道郡第二部戸長役場が置かれ両村はこの管轄となる。
 明治二十二年、上二万村、下二万村合併して二万村となる。明治三十三年吉備郡、以下前記の通り、
現在大字下二万、大字上二万となっている。


箭田町

 箭田村はこの合併の二年前、昭和二十五年四月に町となったばかりであった。
 この地は古くは備中国下道郡八田郷に属し、また八田部郷ともいわれ、仁徳天皇の皇后八田皇女のために立てられた御名代の地であるという。

 この地は箭田大塚などの示す如く、古くからひらけ、吉備真備の出生の地として、その墳墓、館跡などがある。
 鎌倉時代より戦国時代の終わりまでは岡田村と同じ。元和元年(1615)に伊東長実が当地藩主となった時八田村は八田村と矢田村とに分かれ、八田村は伊東氏、矢田村は岡山の池田氏の領地として飛地となり明治維新を迎えた。
 かくて明治四年廃藩置県の時、八田村は岡田県、矢田村は岡山県となった。
 その時は当町は矢田の地域のみ、岡山領の飛地の県となり、他は皆岡田県であった。
 それが同年十一月当地方がみな深津県となった時、この両村とも深津県となる。
 明治九年十月三十一日矢田村と八田村と合併して箭田村となる。
 箭田のみいわゆる時ならぬ時分に合併している。
 明治三十三年吉備郡など前記の通り。
 昭和二十五年に町となる。二十七年真備町となったが、箭田は川辺と同じく大字を二つにせず。


呉妹村

 古くは備中国呉妹郷と称す。岡田村などと同じ経路をたどるが、村は尾崎村と妹村とに分かれていた。
 明治十年第三戸長役場が尾崎に置かれ、これを明治十六年には第四部戸長役場という。
 明治二十二年二村合併して呉妹村という。その後他の村と同じ。現在は大字妹、大字尾崎となる。


服部村(穂井田村の一部)

 穂井田村は陶、服部の二大字、もとはそれぞれ村だった。
 この地は古く川島県の領域に包含され、大化改新後は下道郡に属し穂北郷(又は穂井田郷)と称され、平安中期から穂田荘と呼ばれた。
 陶の名は雄略天皇の御代に百済から帰化した陶部に由来する。即ち陶器を製造する者がいた所となる。 それで今も窯跡が現存する。
 服部は応神天皇の時、呉から帰化した呉服部に因むもので、小田川を隔てて呉妹村の尾崎の地と一帯をなし、呉服部と呼ばれたが、後南北に川を境として分かれ、北の尾崎は妹と合して呉妹となり、南は陶と合して穂井田郷となった。

 江戸時代より明治初年まで岡田村などと同じく伊東氏の領地で、明治初年の県の統合なども岡田村などと同じ。
 明治十一年戸長が置かれた時この両村に戸長あり、十六年の連合戸長制の時に、服部に下道郡第三部戸長役場が置かれ二村を管轄。
 明治二十二年両村合併して穂井田村となる。
以下岡田村などと同じ。


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