備中猿掛城主 庄氏


 上野氏兄弟を討ち取って、松山城主となった庄氏は、もともと 大職冠藤原鎌足の子孫と言われる。
 早くから武蔵の国に住し、武蔵七党の旗頭の一人として重きをなし、庄権守藤原広高は鎌倉幕府の御家人となり、その子本庄太郎家長の時、平家追討に際して武功をあげた。
 平氏没落に際して備中一国が欠国となったので、守護代として関東から移ったものであるが、入国した家長は城を猿掛に築き、横谷の御土井に居館を構えて、次第にその勢力を蓄えて行った。
 庄氏は鎌倉以来猿掛の城主で、備中草壁郷、今の小田郡矢掛町三谷や山田など備中南部を中心とした土豪であり、室町時代には守護細川氏の守護代として、大きな勢力を持っていたが、応仁の大乱後はますますその勢力を伸ばし、細川氏の領国支配権はしだいに衰えてきた。
 京都相国寺領の川辺荘で、文明十八年(1487)守護の被管石川左京進が、代官職を望み強引に川辺荘へ入部、合戦に及ばんとし、更に延徳二年(1491)石川左京進がむりやり相国寺領三百貫の川辺荘へ入部してきたので、相国寺では彼に五〇貫の年貢を納めさせる約束で管理させた。
ところが去る六月争いが起こり、左京進が討ち死にした。
 備中南部は、川辺荘の事件から次第に騒がしくなり、ついに延徳三年(1492)庄元資は、守護細川勝久に対して反乱をひき起こしたのである。

庄氏館跡(矢掛町横谷)

 庄氏第三十六代為資は備中松山(高梁)を陥れて庄備中守となり松山城に君臨し、備中の至る所に一族を配置し、庄氏全盛時代を誇った。
 この猿掛城は小田郡矢掛町と吉備郡真備町との境にあり、菩提寺は矢掛町横谷の洞松寺である
二〇メートル上がったところに古書に残る観音寺跡あり、急坂を登ること三十分、「太夫丸」跡につく
これは当時砦の一つであった。
 更に登ること十五分、小丸跡に到着。二段になり、一段は馬場、二段は小丸といわれる。 今から五、六〇〇年前の築城。戦国の世に戦い読けて、約二〇〇年間存続し、三五〇年前に廃城となった。猿掛城跡は、標高二三三メートルある。
 かつてここに三五〇〇人の将兵を収容していた。天正十年(1582)毛利に攻められて惨敗となりその後関ヶ原の戦の後廃城となる。


築城

 今から五八五年前に(1413) 庄氏(駿河守頼資)が細川氏に頼り、旧領に復帰し、その子伊豆守之資と力を合わせ、後、約一七〇年を経て、天正十年(1582)備中高松城合戦の後、織田、毛利が和睦し、毛利(或は穂井田)之清が矢掛東入口の茶臼山に城を築き、翌年移ってより、猿掛城はすたれたといわれる。


合戦

 文明年中(1469ー1486)に庄城主は備後の宮氏を討ち、東方備前福岡に出陣。それ以来覇を近辺に唱えて合戦相つぐ。
 天文二年(1533)為資は松山城を陥いれ、三村氏を破る。これにて庄備中守の名は世にとどろく
 天文十五年(1546)軍勢を整えて西進し、井原市山野上に至り三村軍を迎え撃つ。
 天文二十二年 三村氏大挙して一五〇〇人の手兵で屈辱戦とし猿掛を襲わんとし、矢掛に出陣する。援軍吉川元春は兵一五〇〇を指揮し茶臼山に陣す。
為資はその一族実近と力を合わせ善戦して三村軍を成羽へ追う。
 これで吉川軍は井原の出部に引く。この時矢掛は灰儘となる。
 永禄一二年(1569)毛利輝元は出部に出陣し三村、小見山、伊勢、小田の部下を従え、猿掛に向かって攻める。
 元亀、天正の頃は毛利、浮田、尼子の諸軍来襲し、庄氏しばしば苦戦。
 天正二年(1574)庄は遂に毛利に降る。翌年、之清は穂井田氏を冒し猿掛城主として備中五万貫を領する。


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