尼子氏
amakoshi
 

天文の頃(1532)、美作・備前・備中北部に攻め入った尼子氏は、やがて備中全域を支配するに至った。
その尼子勢力も、毛利氏によって衰退されてしまった。



尼子氏系図

佐々木高氏

高秀
   ↓
高詮 ・高久
    ↓
満秀・持久
    ↓
    清貞
    ↓
久幸・経久
    ↓
女・政久・定久・国久・女 ・ 興久
↓      ↓
            ←     ←    ←          →    →   →        
   ↓           
晴久・女     
↓        
千歳(早世)・義久・倫久・秀久
↓ 
誠久

        勝久        

天文元年(1532)になると、山陰の尼子氏は作州一帯に攻め入り、岡山県北はこの頃から戦乱が続いたのである。

■ 備中・作州を攻略した尼子氏

 出雲の塩治氏を滅ぼした尼子経久は、山陰方面を併合した。やがて大内氏勢力とも衝突するようになり、天文元年九月に尼子の将三好安芸守に命じて、苫田・勝田二郡の作北地帯を攻略した。
 やがて尼子勢は、安芸・備後方面からと、作州方面からの二方面から備中に侵入した。それから、備中を平定したのは天文七年のことであった。

 この頃、備中における尼子氏の勢力は極めて優勢で、備中の土豪で尼子に従わぬ者はほとんど無かった。庄為資、三村家親らも当然、属していたことになる。

■ 尼子晴久、毛利元就の吉田城を攻める

 安芸の毛利氏は、初め大内氏に属していたが、一時尼子氏に属し、その後元就の時代になり尼子氏と断行し、再び大内氏の幕下に入ったのである。
 この事に端を発し、尼子経久は毛利元就を討つ事を決め、天文九年九月、雲州・伯州を中心とする八ヵ国の兵、約三万を率いて安芸に入り、元就を吉田郡山城に囲んだ。ところが吉田郡山城は落ちず、晴久が敗れて出雲に帰ったのである。

■ 三村家親、毛利氏の幕下に!

 吉田郡山城を攻めきれず、敗れてしまった尼子氏の名声は、やや下り坂となってしまった。
備中では庄の一族、穂田実近が兵を出して後月郡における三村領に進入、激しい合戦となり、穂田軍の勝利になったのである。
 三村家親は、毛利元就に助けを願い、毛利軍の備中侵入となった。

■ 猿掛の合戦

 天文十八年神辺城が落城、同二十一年備後滝山城が落城、同二十二年、毛利元就・隆元は井原に陣をすえ、吉川元春が出陣し、三村家親を先陣とした千五百余騎で攻めたが、庄軍の首将である穂田実近は、勇者にて、急ぎ打ち出て、家親を追い立て元就と直に決戦すべしと勇んだ。

■ 庄氏、毛利氏に講和

 猿掛の合戦は庄軍の勝利になることはなかったが、当時の中国において昇天の勢いにあった毛利を敵にまわすことは決して有利ではないと判断した庄氏は毛利氏に講和を申し入れた。
 元就は講和を承諾し、庄・三村両氏の和睦が成立、備中における群雄の大半は毛利氏の幕下に入り、これまで備中を勢力下にしていた尼子氏は影を潜めるようになった。

■ 尼子勢力の最期

 庄高資は、三村家親の嫡男元祐を養子とし、かつて庄氏の本拠であった猿掛城に置いたことに不愉快な思いを抱いていた。この心中を知った尼子氏は、高資に近づき、手を結び、吉田左亮義辰を加番として松山城に送り込み、庄氏を監視させた。
 ところが義辰は、何かにつけて高資に干渉圧迫したため、堪えきれなくなった高資は、再び尼子と手を切り、松山城を吉田左亮義辰に明け渡して猿掛城に逃げ帰った。

 三村家親は、吉田左亮義辰の暴状を元就に報告、元就は小早川隆景に命じ、家親と香川左衛門尉光景に、備中・備後の兵三千余を率い、松山状を攻撃させた。
 手勢三百余りの松山城は落城し、吉田左亮義辰は下道郡川辺まで落ち行き、河中にある石上に腰をかけ、自害した。

 この合戦の結果、毛利氏の備中における勢力は、もはや動かざるものとなり、尼子氏勢力は完全に衰退した。


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