三村氏



悲運の三村氏二代

三村氏系図

三村孫二郎能実、信州挟江から
備中国小田郡星田村に移り住む

親実 -- 親家 -- 親経 -- 親基 -- 親隆 --
盛親
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↓     ↓
親房     宗親
       ↓
政親    親頼    阿西   家親
         ↓             ↓  
元成 -- 元高 -- 親成 実親-- 元範 -- 元親 -- 元祐
          ↓
・成羽城主 毛利氏に仕える




・実親 鬼の身城主
・女、月出城主 楢崎元兼室
・元範 コウ城主
・女、常山城主 上野隆徳室
・女、幸山城主 石川久式室
・元親--勝法師丸 松山城主
・元祐 猿掛城主


■ 三村家親

 三村家は家親の時代、川上郡の国吉城・成羽城などを本拠とし勢力を誇っていたが、家親は若くして剛勇の聞こえ高く早くから備中の覇者になる野望をいたようで、当時、縁者でもあった庄為資と連合軍を組み、兵を北方に進めたのであった。

 天文2年、庄為資が松山城を攻撃し、城主上野伊豆守頼氏兄弟を討ち取り、その領地を奪って備中の半国を領有した。自ら備中守を名乗り、子の高資と共に松山城に入ったのであった。
家親は、それまで松山城へ居城していた尼子氏の城代吉田左京亮義辰を毛利元就の援軍を得て撃ち破ったのである。

 ・毛利の幕下
 家親は毛利の幕下に入り、伯耆(現在の鳥取)に出陣して尼子勢と戦っていたが、留守をねらって備前の松田左近将監らが進入、侵略をはじめた。

 ・作州進出
 伯耆に出陣し、尼子勢との戦も、あと少しで月山富田城は落城しそうであった。家親は永い遠征に国元の備中が気になり、元就に願い許可され、二千余の一族郎党を引き連れ松山へ帰った。
 永禄八年五月に作州に出陣、後藤摂津守勝元を三星城に攻めた。三村方優勢ながら家親は退き、その後山陰に出陣して活躍、翌九年春帰国して再び作州を攻めた。

 ・家親、暗殺される
 先の家親による作州攻めに、怖れた宇喜多直家は、浪人遠藤又次郎・喜三郎に暗殺を依頼した。二人は作州に忍び入り、久米郡穂村の興禅寺を本陣としていた家親を短銃で暗殺した。


■ 三村元親

 元親の時代となり、備中各地の支配する城は防備を固め、宇喜多勢も容易に備中へ進出できなかった。

 ・明禅寺の弔い合戦
 永禄10年春、かつてから小競り合いが続いていた、上道郡沢田村の明禅寺山の塁を三村勢が攻め取り、禰屋与七郎・薬師寺弥七郎らに命じて、150余人をもって守らせた。
 宇喜多直家は、策略をもって三村勢を明禅寺へ出陣するように誘ったのである。三村一族は「これこそ天の与えた弔い合戦の好機」とし、敵直家を討ち取り、備前一国を攻略しようと軍勢を集め、備中高松城で軍議を開いた。
 三村修理進元親を大将とする七千余騎、石川左衛門尉を大将として八千余騎、庄式部少輔元資(三村家親の嫡子で穂田元祐と称した人)を大将とする七千余騎、これらが三方より進撃して宇喜多軍を包囲し、根拠地へ進入しようとした。
 これに対して宇喜多直家は五千余騎を五段に構え、その先鋒に明禅寺山城を攻撃させた。

 この戦は三村軍の大敗に終わり、大将石川左衛門尉久智を始め、中島加賀守・小田小太郎らも戦死し、庄元資は負傷して辛うじて逃げ帰り、元親も敗残兵をまとめて備中に帰った。これを世に「明禅寺崩れ」と言った。

 ・斉田城の合戦
 永禄11年、備中将兵の大半が毛利に従って九州に出陣した留守をねらい、直家は浮田七郎兵衛を大将とする九千余騎を以って備中に乱入した。
 松山城にあった庄備中守高資や斉田城の植木秀長等は、力限り戦っても、九州出陣中の毛利氏からの援軍は期待できないと思い、宇喜多の幕下となり、庄氏の勢力回復を図ることにし、人質を宇喜多家へ出し投降した。
 また、尼子の遺臣山中鹿之助は織田信長に助けを求め、伯耆・出雲の毛利属城を次々と攻め落とし、遂に月山富田城を囲んだ。備中では、正霊山城主藤井能登入道等らが決起し、備後神辺城を襲い、ここを根拠として近郷を討ち従えた。
 元就はこの出来事を知り、筑前に出陣中の吉川・小早川を帰国させ、毛利元清を備中へ向かわせた。元清は江原の伊勢氏を従え、小田氏を帰服させ、宇喜多の駐屯していた猿掛城を取り戻した。こうして備中西南部を平定した元清は、成羽の三村元親を始め、元猿掛城代穂田実近・小田・伊勢などの諸兵を従えて、植木秀長が居る斉田城を包囲し、昼夜の別なく攻め立てた。
 しかし、秀長は容易には陥落しなかったので、城内の糧食が尽きるのを待つことにした。

 秀長は、やむを得ず直家に密使を送り助けを求めた。直家は一万余騎を向かわせ、合戦となり、毛利勢は総崩れとなり、穂田実近は戦死、三村元親も深手を負い、元清は退却したのであった。

 ・尼子の備中征服策
 山中鹿之助は、尼子の勢力挽回を図る策として、備中の征服を企てた。かねてから備中に野心を抱いていた宇喜多直家と連合軍を結成し、元亀元年冬、備中に攻め込んだ。
 連合軍は、都窪郡幸山城を攻め、城主石川左衛門が降伏したため、備北へ向かい、砦部城及び斉田城に植木氏一党を囲んだ。
城主植木下総守秀資は、本領安堵を条件に降伏した。こうして松山城主庄高資も連合軍に降り、その子庄勝資を大将として、三千五百余騎をもって鴨方の細川下野守を攻め、その後備中諸城を陥れたのである。


 ・
元親、毛利へ援軍を求む
 付近の諸城は、みな尼子の勢力下に入るようになったため、成羽の三村元親は毛利へ急報援軍を求めた。元清は八千余騎を率い、後月・小田・浅口の備中南西部を回復、元親を先鋒として松山城に押し寄せた。
 城主庄勝資以下多くの将兵は竹之庄にあり、ひとたまりもなく攻め落とされた。

 ・松山城主、三村元親
 松山城の庄勝資を攻め落とした毛利元清は、戦功のあった三村修理進元親を松山城主とした。
先に斉田城において戦死した穂田元資の猿掛城は、松山城主三村元親が管轄し、その一族が交代で守備することになった。

 この合戦の後、毛利輝元は備中に入り、備前侵入も計画したが、その実現も見ず、かえって逆に宇喜多直家と和睦し、結果はいわゆる備中兵乱を引き起こして、三村氏滅亡の因をつくることになったのである。

 ・元親、織田氏に内通
 毛利・宇喜多両氏和睦の結果、もっとも哀れな気持ちをなったのは三村元親の一族であった。父家親は、直家の刺客によって暗殺され、明禅寺の弔い合戦で大敗を喫し、斉田合戦では実兄穂田元資が宇喜多のため討死、その恨みは骨髄に徹していた。
 その事情を察知した信長は、元親に毛利と断交し、織田家に従うように密使を送って通じたところ、元親は非常に喜んだのであった。
一族の中で、成羽城主三村親成・親信親子だけは不賛成を唱えたが、かえって殺されそうになったため松山を退散して、中島大炊助の居城経山城へ逃げた。
 大炊助は、さっそく鞆津の毛利側に伝え、三村謀反の旨を伝えた。

 ・毛利軍の三村討伐
 中島大炊助から三村元親謀反のしらせを受けた毛利氏は、さっそく三村討伐の大軍を催し、小早川隆景を討伐軍の大将として、総勢八万余騎と称する軍勢を率いて11月10日備中笠岡に出陣した。
 そして、総大将毛利輝元は小田に陣を布いた。三村親成・中島大炊助らを案内とし、宍戸隆家を先陣として、12月20日過ぎに猿掛城を包囲した。城主三村兵部充は松山城に退き、猿掛城は陥落した。
 次いで一軍は斉田城を落とし、一軍は川上郡の国吉城を囲み、天正3年1月1日に落城した。次いで成羽の鶴首城も陥落したため、輝元は、成羽に陣替えし、小田に帰り、猿掛城に入ってこれを本陣とした。
 星田(現、美星町)の法雲山城・新見のユズリハ城が陥落、城主元範は戦死、19日には荒平城が陥ち、城主河西三郎左衛門之秀は児島に退去した。
 23日からは下道郡山田村の鬼身城が包囲されが、城主上田実親は三村元親の弟であったため、衆に代わって自刃し、29日城が陥ちた。

 

 ・松山城落城
 毛利軍の大将小早川隆景は、松山城を力攻めすることは、かえって兵を失い利益は少ないと考え、長期包囲作戦を立て、城内の離反を図った。
籠城が一ヶ月に及んだため、諸兵は気がゆるみ戦意喪失してきた。やがて、城内に居た内通する者らによって天神の丸は破られた。
 その後、大松山・佐内丸・三本松を守っていた三村氏譜代等は、手切れの矢を本丸へ射込み離叛し、毛利勢に寝返るなど、今まで信頼していた家臣までも、次々と元親の陣営から去って行った。
 最後まで残っていた家臣達の説得により、元親は城から落ちて行った。

 ・元親の最期
 城から落ちて行った元親は、怪我をし歩けなくなった。付き人の弥介に、

 ・三村氏の滅亡
 



三村元親腰掛けの岩


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