山中鹿之介 |
国道180号線を成羽方面へ左折し、落合橋を渡りすぐの所に山中鹿之介の墓所はあります。 山中鹿之介は、天文14年(1545)8月15日雲州富田月山城(現出雲市広瀬町)の麓に生まれました。 主君尼子氏に仕えて数々の武勲をたて、英雄豪傑と称せられたが、幾たびかの戦いも常に利あらず、 尼子家存亡の危機にさらされたが、みずから苦難と取り組み、尼子家再興の機を伺っていた。たまたま天正5年 (1577)織田信長は秀吉を将として、播州上月城を包囲させ敵を降させたので、秀吉の軍に参加していた 尼子勝久をこの城の城将に任じ、鹿之介以下尼子勢を以てこれを固めさせた。 翌6年の3月、毛利輝元は備中松山城に出陣し、小早川隆景・吉川元春に命じて上月城を包囲させた。 孤立無援の尼子勢は再興の夢も破れ、7月3日ついに落城し尼子勝久は自害した。鹿之介は捕らえられて、 毛利輝元が居る備中松山へ護送される途中、7月10日阿部の渡し場で討ち取られた。時に34歳であった。 |
高梁市史より
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