備中に於ける、毛利合戦記



天文22年に毛利元就・隆元は備中を攻め始めた
その後、備中であった合戦記


 ■ 尼子勢の庄氏と猿掛の合戦

 天文十八年神辺城が落城、同二十一年備後滝山城が落城、同二十二年、毛利元就・隆元は井原に陣をすえ、吉川元春が出陣し、三村家親を先陣とした千五百余騎で攻めたが、庄軍の首将である穂田実近は、勇者にて、急ぎ打ち出て、家親を追い立て元就と直に決戦すべしと勇んだ。

 猿掛の合戦は庄軍の勝利になることはなかったが、当時の中国において昇天の勢いにあった毛利を敵にまわすことは決して有利ではないと判断した庄氏は毛利氏に講和を申し入れた。  元就は講和を承諾し、庄・三村両氏の和睦が成立、備中における群雄の大半は毛利氏の幕下に入り、これまで備中を勢力下にしていた尼子氏は影を潜めるようになった。

 ■ 斉田城の合戦

 永禄11年、備中将兵の大半が毛利に従って九州に出陣した留守をねらい、直家は浮田七郎兵衛を大将とする九千余騎を以って備中に乱入した。
 松山城にあった庄備中守高資や斉田城の植木秀長等は、力限り戦っても、九州出陣中の毛利氏からの援軍は期待できないと思い、宇喜多の幕下となり、庄氏の勢力回復を図ることにし、人質を宇喜多家へ出し投降した。
 また、尼子の遺臣山中鹿之助は織田信長に助けを求め、伯耆・出雲の毛利属城を次々と攻め落とし、遂に月山富田城を囲んだ。備中では、正霊山城主藤井能登入道等らが決起し、備後神辺城を襲い、ここを根拠として近郷を討ち従えた。
 元就はこの出来事を知り、筑前に出陣中の吉川・小早川を帰国させ、毛利元清を備中へ向かわせた。元清は江原の伊勢氏を従え、小田氏を帰服させ、宇喜多の駐屯していた猿掛城を取り戻した。こうして備中西南部を平定した元清は、成羽の三村元親を始め、元猿掛城代穂田実近・小田・伊勢などの諸兵を従えて、植木秀長が居る斉田城を包囲し、昼夜の別なく攻め立てた。
 しかし、秀長は容易には陥落しなかったので、城内の糧食が尽きるのを待つことにした。

 秀長は、やむを得ず直家に密使を送り助けを求めた。直家は一万余騎を向かわせ、合戦となり、毛利勢は総崩れとなり、穂田実近は戦死、三村元親も深手を負い、元清は退却したのであった。

 ■ 松山城攻め

 

 ■ 三村氏討伐

 毛利氏の幕下であった三村元親は、織田氏に内通した為、毛利軍により攻め滅ぼされた。
 (この内容は膨大な為、追々掲載します)

 ■ 高松城攻防戦

 今から約400年前の天正10年(1582)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉は、3万の大軍をもって備中国南東部に侵入し、毛利方の諸城を次々と攻略するとともに、備中高松城を攻めた。
 一方、毛利勢は、8万の大軍をもって守備していたが、秀吉の高松城水攻めから清水一族を救うことが出来ず、苦戦していた。 (つづく)

 (この内容は膨大な為、追々掲載します)


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