備中 毛利時代の城&城主
 


● 備中の毛利勢力 天正三年(1575)
   ・三村氏の滅亡によって備前・備中の二ヶ国は、完全に毛利氏の幕下に入った。備中を平定した毛利氏は、今後に備えて新たに
    武将の配置を行った。 主なるものを書き並べてみると下記のようになります。

 
城名 城主 場所
松山城 (城代)天野五郎右衛門、桂民部大輔 高梁市松山
鬼身城 宍戸隆家 総社市山田
国吉城 吉川元春、(城番)今田山城守 川上郡川上町
幸山城 小早川隆景、(城番)国司壱岐守、(加番)中島大炊助 都窪郡山手村
鶴首城 三村越前守親成 川上郡成羽町
高松城 清水長左衛門宗治 岡山市高松原古才
経山城 中島大炊助元行 総社市小寺
冠山城 禰屋七郎兵衛定勝 岡山市下足守
日畑城 日畑六郎兵衛景親 岡山市日畑
常山城 (城番)山本四郎左衛門、渡辺伊豆 玉野市
伊与部山城 明石兵部少助 総社市下原
神戸山城 小田民部少輔高清 小田郡矢掛町
馬鞍山城 小田孫兵衛 笠岡市山口
笠岡山城 村上掃部頭武吉 笠岡市笠岡
猿掛山城 毛利元清 真備町・矢掛町に跨る
茶臼山城 天正12年(1584)毛利元清、猿掛山城から移る 矢掛町
 

 松山城
   ・松山城は、秋庭氏が初めて築いた山城で、この城を治める武将たちが備中を支配してきました。
   高橋・上野・庄・三村氏など城主となり、毛利時代には天野五郎右衛門・桂民部大輔を城代としました。

◆ 鬼身城
   ・鬼身城は、備中の殆どを制圧していた三村氏の家臣、上田実親が居城していました。
    天正三(1575)年、三村氏の織田氏への寝返りにより、毛利氏に攻められ滅びました。その後、毛利氏が一番の家臣・
    宍戸安芸守隆家に付近八万石と共に城を与えました。
    鬼身城は毛利氏の備中防衛拠点としました。関ヶ原の合戦後、放棄する。


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