豊臣時代の備中国

 天正10年(1582)に起こった秀吉軍による備中侵攻(中国征伐)は、毛利勢の最前線に置いていた備中七城が次々と落城し、高松城では、清水宗治が籠城し、苦戦を迫られていた。その最中、「本能寺で織田信長が明智光秀に討たれる」という急報が飛び込んで来た。

 秀吉は、清水宗治の切腹と高梁川を境にする事を条件に毛利と講和し、明智光秀を討つため、京都へ引き返した(中国大返し)。明智光秀を討ち取った秀吉は、柴田勝家を討ち取り、天下を取ったのであった。

 備中国では、高梁川を境に東を宇喜多領とし、西を毛利領としたのである。 毛利領では、着々と城々を整備し、領民等の生活を安定する為に、努力したのであった。


  高梁川の境
 ・高松城水攻めの講和条件で、伯州(鳥取県)は、矢走川を境とし、備中は、高梁川を境とした。
  その結果、高梁川以東の毛利勢は郷土を離れることになってしまう。


  中島家&清水家の処遇
 ・天正10年(1582)6月28日、中島大炊介・清水源三郎・中島吉十郎は登城し、輝元と対面し、中島大炊介へ、「備中の仕置きは当家に任す。長左衛門の在命の時に決めた境目、城普請等は元清並びに宍戸備前と相談して申し付けるように」と仰せられた。
 中島氏、清水氏の両家は、住み慣れた郷土を立ち退き、下道郡河辺村(真備町川辺)に在住した。


  松山城
 ・高梁川を境目にする講和条約通りであったならば、高梁川より東にある松山城は当然東軍の所管に属し、軍事拠点を失う事になる。
毛利氏は松山城を講和条件から除外することを、蜂須賀彦衛門・黒田官兵衛に対し強く主張し、度重なる折衝の結果、特に蜂須賀彦衛門の仲介・斡旋によって、天正12年(1584)、その主張が認められて松山城は毛利の所有となったのである。

毛利氏関連へもどる

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送