幸山城




幸山城(清音村側から)

幸山城は都窪郡山手村と清音村にまたがる山城である。
元弘三年(1334)の頃には、庄資房(左衛門四郎と称す)が幸山城主であったと記録に残る。
猿掛城主、庄氏の備中南部重要拠点であったと思われる。

後の時代に、石川久式が城主となる。
天文二年(1533)に、松山城主となった庄為資の縁者に「高山の石川」とあるが、末裔か?
三村元親の妹婿であった石川久式は、毛利氏による三村討伐の際、松山城に籠城し、
松山落城の後、幸山城まで帰還したが、毛利の追っ手に掛かり自害した。

天正三年(1575)備中を制圧した毛利氏は、小早川隆景を城主、国司壱岐守を城蕃、中島大炊助を加蕃とした。
その後起こった秀吉軍による中国討伐(備中侵攻・高松城水攻め)の際に、小早川隆景は幸山城に入り、
毛利輝元は猿掛城を本陣とし、一部隊を幸山城に置いた。


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