備中猿掛城



知られざる山城、備中猿掛城

備中国では松山城に次ぐ規模であった

猿掛城主庄氏を、ご存じでしょうか?
かって、戦国時代に草壁の庄(矢掛町の東部)の土豪から備中国を制覇した武将です。



猿掛城を望む

この山城は、西国へ往来する者達を一目瞭然に監視できる場所にある。
小田川を挟むように山が、そびえ立っており、街道の重要拠点であったであろう。




 ■ 馬場
   東西18メートル

 ■ 大夫丸
   当時、砦の一つ

 ■ 六の丸
   東西27メートル 南北29メートル

 ■ 五の丸
   東西29メートル 南北23メートル

 ■ 四の丸
   東西9メートル 南北18メートル

 ■ 三の丸
   東西72メートル 南北54メートル

 ■ 二の丸
   東西18メートル 南北18メートル

 ■ 本丸
   東西23メートル 南北27メートル







 この猿掛城は小田郡矢掛町と吉備郡真備町との境にあり、菩提寺は矢掛町横谷の洞松寺である

 猿掛山の麓、真備町妹から登山道があり、これより山頂をめざして急坂を上って行く。備中松山城へ登城する感じに似ているが、ここ猿掛城へは滅多に人が上らない為、注意が必要である。

 20メートル上がったところに古書に残る観音寺跡あり、急坂を登ること30分、「太夫丸」跡につく、これは当時砦の一つであった。
 更に登ること15分、小丸跡に到着。二段になり、一段は馬場、二段は小丸といわれる。 今から5〜600年前の築城。戦国の世に戦い読けて、約200年間存続し、350年前に廃城となった。猿掛城跡は、標高233メートルある。かって、ここに3500人の将兵を収容していた。
天正十年(1582)毛利に攻められて惨敗となり、庄氏は滅亡したのであった。

 その後、毛利元清の居城となり、備中南西部の毛利重要拠点と位置づけられた。

やがて関ヶ原の戦いの後、廃城となる。




 

庄氏居館跡
小田郡矢掛町横谷

矢掛町横谷、福武家の屋敷に隣接する場所に庄氏
が居た館跡がある。
猿掛山の麓になり、全盛期にはかなりの規模であったと思われる。

猿掛城付近の地図



庄氏とは?

平氏没落に際して備中一国が欠国となったので、守護代として関東から移ったものであるが、
入国した家長は城を猿掛に築き、横谷の御土井に居館を構えて、次第にその勢力を蓄えて行った。


 庄氏は鎌倉以来猿掛の城主で、備中草壁郷、今の小田郡矢掛町三谷や山田など備中南部を中心とした土豪であり、室町時代には守護細川氏の守護代として、大きな勢力を持っていたが、応仁の大乱後はますますその勢力を伸ばし、細川氏の領国支配権はしだいに衰えてきた。


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