秋庭氏
akibashi


大松山(松山城)に初めて城を築いたのが、秋庭三郎重信であった!

秋庭氏系図

忠瀬 -- 将常
     忠常
                      忠通 -- 為通 -- 義継 相模介
                          ↓
義明太介
義行 津久井次郎
為清
芦名三郎
義実
岡崎四郎
義宗 義澄 -- 義村
     ↓
為行
矢部太郎
高行二郎 義光三郎

秋庭二郎義方

義高
秦村介
正五位下若狭守駿河次郎

■ 秋庭氏五代

 承久の乱後、鎌倉幕府から戦功の褒美に有漢郷の地頭職に補せられた秋庭重信は、その後任地につき、現在の上房郡有漢町貞守、台ヵ鼻に台ヵ鼻城を築き、約一八年間ここを居館とした。
 延応二年、備中路における最大の軍事拠点となる臥牛山の大松山に初めて城を築いたのが秋庭三郎重信であった。

■ 初代 秋庭三郎重明
 鎌倉幕府は新見東寺の荘園紛争につき、領家新見九郎貞直の横領を止めさせるように、秋庭備中守(重明)を備中における実力第一人者として命じたが、効果もなく、貞直の横領は重明が備中松山城主となるまで続いた。
 
 有漢町の土井に屋敷を構え、その正面に防備を施した常山城を築き、地域荘民からの信頼も得て、徐々に国衆としての地位・軍力を確立したのであった。
 正平年間の頃には、京都の足利義詮の御教書を受け、新見荘領家職の乱暴まで止めさせている。

■ 二代 秋庭八郎頼重
 「姓氏家系大辞典」によれば、『重明高師秀を追いし後、備中の守護代となりて松山城に居り、其の子備中守元重継ぐ』とある。

■ 三代 秋庭平之充頼次
 資料に乏しく、墓は医王堂境内にある。

■ 四代 秋庭備中守元明
 赤松満祐が将軍義教を殺した時には、元明は細川管領家に従って幕府討伐軍に属し、播州へ出陣し、赤松満祐を討ち取り戦功を立てた。
その後、応仁の乱が勃発し、元明は細川勝元の部将として戦い、最後を迎えた。

■ 五代 秋庭備中守元重
 元重が父の後を継いだ翌文明六年に、細川・山名両氏の講和が成立し、ようやく都に静けさが戻ってきたのである。
この頃、秋庭一族はほとんど京都で生活していたようである。元明の最後は明らかではなく、秋庭氏の時代は終わった。

 やがて各地で豪族の勢力争いに明け暮れる、戦国時代に突入するのである。



医王堂 秋庭氏歴代の墓

大小30基の五輪塔が並んでいる


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